1733. 金井俊雄君 (その日その日)
1733. 金井俊雄君 2015-12-1. Ta.
市内の我が庵の壁には、昭和30年( 1955年)の夏、新潟で高校教師をしていたとき、当時武蔵野美術学校学生だった金井君が夏休みに描いた海の絵が飾られている。
彼が残していった絵は、丸められたまま、新潟から東京、京都、大阪など、十数回の引っ越しにも耐えて五十数年後にようやく額装された。
金井君が亡くなって5年になる(1933~2010‐11‐20)。77歳だった。バイク事故で体の自由を失い、60歳から養護施設に入っていたが、プライバシーを理由に、施設に何を問い合せても教えてくれなかったので、彼の死を知ったのは亡くなって大分経ってからである。
初めて彼に逢ったのは、今から70年前の昭和20年3月、終戦に間もない頃の旧制中学の入学試験だった。彼は何かの病気で、担架に載せられてきたのだから忘れる筈がない。それで入学を許されたのだから、当時の試験などかなり適当だったか。
一年後には彼と親しくなる。色白の繊細な少年で(成人して髭面になったが)千曲川に二人で泳ぎ、高社山の急坂に石を投げて遊び、一緒に模型を作り、よく気が合った。
彼は我が家から15-16km離れた山の中の馬曲という小さな分教場の先生の子で、学校に通える距離ではないので、町内に姉さんと下宿していた
彼は夏休みに親がいる分教場に帰ったが、バスや鉄道があるわけでなく、簡単に遊びに行ける距離ではないので、私は葉書にぎっしりと言いたいことを書く。
所が、ある日、私宛に「馬曲山人」という差出名で葉書がきた。私の書いた金井への葉書に、多少の教訓を込めた親の返事だ。
子供の手紙に親が返事するなんて、子供っぽい親だ。
それで長年小さな分教場にいるのだろう?なんて失礼な感想も浮かんだが、面白い人であることは確かだった。一回か二回訪ねただけだったが、その後50何年かが過ぎ去った。
この近くに馬曲温泉という見晴らしのいい露天風呂ができ、私は会社も定年となり、田舎で開かれた同窓会の帰りに女房と孫と三人、車で彼等の暮らした分教場の跡を通ってみた。
跡地には草で覆われた4‐50mの平地が残っている。建物は既になく、繋がれた一匹の山羊が草を食んでいた。
市内の我が庵の壁には、昭和30年( 1955年)の夏、新潟で高校教師をしていたとき、当時武蔵野美術学校学生だった金井君が夏休みに描いた海の絵が飾られている。
彼が残していった絵は、丸められたまま、新潟から東京、京都、大阪など、十数回の引っ越しにも耐えて五十数年後にようやく額装された。
金井君が亡くなって5年になる(1933~2010‐11‐20)。77歳だった。バイク事故で体の自由を失い、60歳から養護施設に入っていたが、プライバシーを理由に、施設に何を問い合せても教えてくれなかったので、彼の死を知ったのは亡くなって大分経ってからである。
初めて彼に逢ったのは、今から70年前の昭和20年3月、終戦に間もない頃の旧制中学の入学試験だった。彼は何かの病気で、担架に載せられてきたのだから忘れる筈がない。それで入学を許されたのだから、当時の試験などかなり適当だったか。
一年後には彼と親しくなる。色白の繊細な少年で(成人して髭面になったが)千曲川に二人で泳ぎ、高社山の急坂に石を投げて遊び、一緒に模型を作り、よく気が合った。
彼は我が家から15-16km離れた山の中の馬曲という小さな分教場の先生の子で、学校に通える距離ではないので、町内に姉さんと下宿していた
彼は夏休みに親がいる分教場に帰ったが、バスや鉄道があるわけでなく、簡単に遊びに行ける距離ではないので、私は葉書にぎっしりと言いたいことを書く。
所が、ある日、私宛に「馬曲山人」という差出名で葉書がきた。私の書いた金井への葉書に、多少の教訓を込めた親の返事だ。
子供の手紙に親が返事するなんて、子供っぽい親だ。
それで長年小さな分教場にいるのだろう?なんて失礼な感想も浮かんだが、面白い人であることは確かだった。一回か二回訪ねただけだったが、その後50何年かが過ぎ去った。
この近くに馬曲温泉という見晴らしのいい露天風呂ができ、私は会社も定年となり、田舎で開かれた同窓会の帰りに女房と孫と三人、車で彼等の暮らした分教場の跡を通ってみた。
跡地には草で覆われた4‐50mの平地が残っている。建物は既になく、繋がれた一匹の山羊が草を食んでいた。
by takajikurita
| 2015-12-01 08:41