1117. 百歳で元気な人
1117. 百歳で元気な人 2012-10-22, Ta.
No.194に、中学で東洋史を教わった松平先生のことを記しましたが、今日偶然NHK放送の写真が見つかったので追加してみます。
100歳の松平先生→
大学生の松平先生↓
194. 松平先生 2007-6-14, Ta.
中学の先輩からの電話で、中学一年のときに(昭和20年)東洋史を教えられた松平定房先生が100歳になり、お元気で東京の同窓会に出席されたという。これは驚きである。当時、すでに松平先生は、われわれ子供の目には十分年寄りであった。徴兵にかからないほどの年寄りだった。その先生がまだ生きていらっしゃったとは!
逆算すると、当時三十八歳だったことになる。現在だったら青年といってもいい歳なのに、どうして年寄りに見えたのであろうか?
昭和二十年四月、戦争も末期、私たちは、戦時最後の中学一年生になった。もう教科書の印刷さえできない状況で、松平先生の初めての歴史の授業は黒板に大きく「光陰如矢 少年易老 学難成」と書かれた言葉から始まった(漢文には自信がない。覚え違いかも)。次に世界四大文明の発祥から話を進められた。いかにも雄大で中学生になったという実感がわいてきた。文明は大河の流域から始まったという言葉が印象に残る。
松平先生は、狐のようにやせていたのでコンチャという仇名で呼ばれて、本名はほとんど通用していなかった。当時、語尾にチャとつく仇名で呼ばれていた先生は三人いて、英語の小林万造先生はマンチャ、数学の喜多先生はモンチャであり、それぞれ、実にユニークな個性を持っていた。
モンチャは常に謹厳実直、笑った顔も怒った顔も見たことがなかった。小柄で彫りの深い外人のような風貌で、噂によれば北海道のアイノ人とのことであった。しかし、馬鹿にしたり、軽く見たりする人はいなかった。喜怒哀楽を表さなくても、誠実な人柄の良さはにじみ出ていた。
マンチャの英語は、「現在は敵国の言葉であるが、敵を知り己を知らざれば勝つを得ずという言葉もある。相手をよく知ることは大事なことだ。一生懸命勉強してほしい」という前置きの後に、アルファベットを手書きで黒板に書いて教えることから始まった。印刷された教科書がなかったので、筆記体から覚えたのである。
授業では、ほとんど先生は日本語を使われなかった。たえず、次々と生徒を順番に指名して、先生の英語の発音を真似させるのである。とくに、日本語にないth とか、wh などの発音は、ワンスモア、ワンスモアと繰り返しやらされたが、なかなか真似はできなかった。
歴史のコンチャは学識のある先生という評判であった。親戚の小林秀雄の親は中国古典などに興味のある人だったが、先生の評判を聞いてコンチャを招待した。
わが祖母は偶々そこで先生に遇い、孫が理科系に大きな興味を持つことを知っていただいたことから、是非中学進学するようにと勧められたらしい。
松平先生が、そんなにお元気なら、何か著書があるかもしれない。著書があれば、ネットで調べられるはずと考えて、グーグルで検索したら、NHK の「百歳バンザイ」という番組で紹介されていることがわかった。
写真をみれば、まぎれもなく往年のコンチャである。今年二月に撮られたばかり、百歳と思えないお元気な姿、漢詩をつくられるのが趣味で、先生直筆の漢詩が載せられている。60年ぶりの再会(私だけの)は驚きと感激であった。 TV取材に応じて作られた百歳の即興詩を次に記す。
憂躊一瞬 電映光
老詠添姿 晋八荒
質万中元 選老奈
縦任一黎 稚歌行
(ためらっている間にテレビの撮影が始まった。老人の詠んだ下手な詩が老人の姿を添えて、四方八方〈日本中〉に広がる。応募者の中から私を選んだのはどうしてか。下手な詩だと白い歯を出して笑うだろう。笑われてもいいよ。) 2012年に付記: 先生はこの翌年101歳で亡くなられた。
No.194に、中学で東洋史を教わった松平先生のことを記しましたが、今日偶然NHK放送の写真が見つかったので追加してみます。
100歳の松平先生→
大学生の松平先生↓
194. 松平先生 2007-6-14, Ta.
中学の先輩からの電話で、中学一年のときに(昭和20年)東洋史を教えられた松平定房先生が100歳になり、お元気で東京の同窓会に出席されたという。これは驚きである。当時、すでに松平先生は、われわれ子供の目には十分年寄りであった。徴兵にかからないほどの年寄りだった。その先生がまだ生きていらっしゃったとは!
逆算すると、当時三十八歳だったことになる。現在だったら青年といってもいい歳なのに、どうして年寄りに見えたのであろうか?
昭和二十年四月、戦争も末期、私たちは、戦時最後の中学一年生になった。もう教科書の印刷さえできない状況で、松平先生の初めての歴史の授業は黒板に大きく「光陰如矢 少年易老 学難成」と書かれた言葉から始まった(漢文には自信がない。覚え違いかも)。次に世界四大文明の発祥から話を進められた。いかにも雄大で中学生になったという実感がわいてきた。文明は大河の流域から始まったという言葉が印象に残る。
松平先生は、狐のようにやせていたのでコンチャという仇名で呼ばれて、本名はほとんど通用していなかった。当時、語尾にチャとつく仇名で呼ばれていた先生は三人いて、英語の小林万造先生はマンチャ、数学の喜多先生はモンチャであり、それぞれ、実にユニークな個性を持っていた。
モンチャは常に謹厳実直、笑った顔も怒った顔も見たことがなかった。小柄で彫りの深い外人のような風貌で、噂によれば北海道のアイノ人とのことであった。しかし、馬鹿にしたり、軽く見たりする人はいなかった。喜怒哀楽を表さなくても、誠実な人柄の良さはにじみ出ていた。
マンチャの英語は、「現在は敵国の言葉であるが、敵を知り己を知らざれば勝つを得ずという言葉もある。相手をよく知ることは大事なことだ。一生懸命勉強してほしい」という前置きの後に、アルファベットを手書きで黒板に書いて教えることから始まった。印刷された教科書がなかったので、筆記体から覚えたのである。
授業では、ほとんど先生は日本語を使われなかった。たえず、次々と生徒を順番に指名して、先生の英語の発音を真似させるのである。とくに、日本語にないth とか、wh などの発音は、ワンスモア、ワンスモアと繰り返しやらされたが、なかなか真似はできなかった。
歴史のコンチャは学識のある先生という評判であった。親戚の小林秀雄の親は中国古典などに興味のある人だったが、先生の評判を聞いてコンチャを招待した。
わが祖母は偶々そこで先生に遇い、孫が理科系に大きな興味を持つことを知っていただいたことから、是非中学進学するようにと勧められたらしい。
松平先生が、そんなにお元気なら、何か著書があるかもしれない。著書があれば、ネットで調べられるはずと考えて、グーグルで検索したら、NHK の「百歳バンザイ」という番組で紹介されていることがわかった。
写真をみれば、まぎれもなく往年のコンチャである。今年二月に撮られたばかり、百歳と思えないお元気な姿、漢詩をつくられるのが趣味で、先生直筆の漢詩が載せられている。60年ぶりの再会(私だけの)は驚きと感激であった。 TV取材に応じて作られた百歳の即興詩を次に記す。
憂躊一瞬 電映光
老詠添姿 晋八荒
質万中元 選老奈
縦任一黎 稚歌行
(ためらっている間にテレビの撮影が始まった。老人の詠んだ下手な詩が老人の姿を添えて、四方八方〈日本中〉に広がる。応募者の中から私を選んだのはどうしてか。下手な詩だと白い歯を出して笑うだろう。笑われてもいいよ。) 2012年に付記: 先生はこの翌年101歳で亡くなられた。
by takajikurita
| 2012-10-22 14:56